2018年3月18日日曜日

盛岡冷麺の旅 - ⑦ぴょんぴょん舎(下)

ぴょんぴょん舎の冷麺(別辛)

ぴょんぴょん舎を出る前、どうしても目に焼きつけておきたいものがあった。レジの横に設けられた煉瓦積みの一角。その中央には一台の薪ストーブが鎮座する。夜になると赤々と燃え盛り、そのゴツゴツした姿もあいまって溶鉱炉を思わせるという。

「昔、アボジ(父)や自分がクズ鉄屋をしていた痕跡をなんとか店に残したくて。柱にかけていたハサミは、アボジが飴屋だったころ飴を切るのに使ったのと同じものなんだ」(『盛岡冷麺物語』p.54)


邉はそう説明する。たしかに、薪ストーブの左上の柱には黒ずんだハサミがかけられている。その下にある石の置物は済州島にみられる道祖神、トルハルバン(돌하르방)だ。

戦前、済州島民の多くが定期船「君が代丸」に乗って日本へ渡った。邉の両親もそうだった。この一角にたたずみながら、邉が語っていた「盛岡冷麺」誕生までのさまざまな葛藤のことが脳裏をよぎった。

ぴょんぴょん舎の前庭。気候の良い季節には
このテラス席で冷麺を楽しめるのだろうか

ところで、邉が鄭大聲と会ったときに飛び出した鄭の「邪道」発言には、実はつづきがある。

「邪道でも、それはそれでいいんじゃないの。文化は伝わってゆく過程で変化するもの」(『盛岡冷麺物語』p.96)。

鄭は盛岡冷麺を「邪道」と認定する。しかし、たとえ「邪道」だとしても、それが盛岡の地で立派に根づいている以上、ひとつの食文化として肯定されるべきだと言いたいらしい。

『盛岡冷麺物語』

初めて『盛岡冷麺物語』を読んだとき、この主張に大いに納得させられた。しかし、実際に盛岡の冷麺文化に触れてみてからは、ちょっと違う考えが心中を去来するようになった。そもそも盛岡冷麺は「邪道」ではないのではないか––と。

「邪道」とは本来あるべき道理から逸脱している状態を指す言葉である。では、冷麺にとって本来あるべき道理とは何か。平壌冷麺のレシピ通り、蕎麦の全層粉3割に対してお湯を3割加えて製麺することか。いや、きっと違う。蕎麦の香りがする冷麺はいいものだが、それはしょせん、数ある要素のひとつにすぎない。

北朝鮮の料理写真集に掲載されている「本場」の平壌冷麺。
조재화『조선의 특산료리』(평양출판사、2005)より

冷麺とはあまりにも快楽的な食べ物である。味と香り、冷感と食感、視覚と痛覚、ときに錯覚––。そういったあらゆる要素が連携プレーでわれわれの五感へ訴えかけてくることから生まれる、あの冷麺独特の喜び。それこそが、真に冷麺を冷麺たらしめているものなのではないか。

そうだとすれば、盛岡の冷麺は平壌やソウルで食されているそれと何ら変わるところはない。「邪道」どころか保守本流そのものだ。

前日に食べた「食道園」の冷麺(別辛)

「食道園」の青木輝人
は咸興での幼少期、いつも食堂で冷麺に唐辛子を山ほどかけて周囲をあきれさせたという。その後、青木が盛岡で初めて作った冷麺は、彼の幼少期の記憶の中で誇張された故郷の味を手近な材料で不器用に再現した荒々しい食べ物だった。

思うに、青木には料理人経験がなかったからこそ、形式主義に陥ることなく、思い出の中で誇張された冷麺の快楽にたいして忠実でありえたのではないか。

盛岡城近くの桜山商店街

そんな快楽の余韻に浸りながら、午後は盛岡城跡などを散策した。しかしまもなく新幹線の時間が迫ってきた。

盛岡市中心部を東西に貫く「大通」を歩いて盛岡駅へ向かう。10月とはいえ陽射しはうららかで、通りは若者や家族連れで賑わっていた。多くの地方都市で中心部の空洞化が深刻さを増すなか、この光景には良い意味で驚かされた。

1928年築の「佐藤写真館」。現役で営業しているのだという

盛岡には明るさがあり、賑わいがあり、そして冷麺がある。必ずやまた来よう。その決意を胸に、ふたたび盛岡駅前の開運橋を渡った。北上川の急流が昨日より少し穏やかに見えた。

帰り際の北上川

(完)