2018年1月30日火曜日

盛岡冷麺の旅 - ③食道園(中)


「邪道だね。」

日本を代表する朝鮮料理研究家の鄭大聲(チョン・デソン)が言い放った。盛岡冷麺には蕎麦粉を使わないという説明を耳にした彼の率直な反応だ。1993年、盛岡で冷麺専門店を営む人物が鄭を訪ねたときのひとコマである(『盛岡冷麺物語』p.96)。

北朝鮮の料理写真集に掲載されている「本場」の平壌冷麺。
조재화『조선의 특산료리』(평양출판사、2005)より

鄭が「邪道」と言ったのは、もちろん、平壌冷麺など朝鮮半島で食されている冷麺を基準としてのことだ。

平壌冷麺の特徴について念のため振り返っておくと、麺は蕎麦粉を主原料とし、澱粉を混ぜる場合もある。そしてスープは肉のダシにトンチミ(大根の水キムチ)の漬け汁をブレンドしたものが基本とされている。

これを踏まえると、盛岡冷麺が「邪道」と言われてしまうのにもうなずける。なぜならば、まず盛岡では麺に蕎麦粉を使わず、代わりに澱粉や小麦粉に重曹を練りあわせて半透明に仕上げる。さらに、スープは牛骨ダシをベースにしつつも、店によっては醤油や味醂で風味を整えたり、あまつさえ鰹ダシや昆布ダシを隠し味にしたりする場合すらある。

盛岡冷麺の麺は白い。盛岡「食道園」にて

この「邪道」な冷麺は、いかにして誕生したのか。すでに触れた通り、盛岡における冷麺文化の発祥の店とされているのが大通1丁目の食道園だ。創業者は咸興出身の在日朝鮮人1世、青木輝人(あおき・てると)である。

1960年代当初、食道園が出していた冷麺は現在の盛岡冷麺のような洗練された料理ではなかった。それはむしろ、料理人経験のない青木が幼少期の思い出の中で誇張された故郷の味を手近な材料で不器用に再現した荒々しい食べ物だった。

それゆえ、食道園が出した冷麺は日本人の味覚に媚びない挑発的なものだった。というより、料理人経験のない青木には日本人の味覚に合わせようという意思も能力もなかった。

唯一、意識的に変えたのは麺の材料だ。蕎麦粉を使った灰色の麺ではおいしそうに見えないと考え、小麦粉に変えて白くした(これは東京の朝鮮料理店ですでに行われていた工夫だ)。

それでも評判は芳しくなく、最初は少し箸をつけて金も払わずに出て行く客があとを立たなかった。食べ方を教えてやる、と言って、青木が客の冷麺を取り上げ、玉子をグチャグチャに崩して混ぜてやることもあった。せめてものサービスのつもりだったが、かえって客をびっくりさせるだけだった。

現在の「食道園」

そんなあるとき、たまたま近くのシャンソン喫茶にたむろして芸術論を戦わせていた若者たちの目に食道園の冷麺が留まった。彼らは金だらいのような巨大な容器に盛られた赤くて辛い挑発的なその料理をカウンターカルチャー的なものとして受けとめて、いつしか競って食べるようになった。

これはまったく食道園の店主の意図しない受容のされ方だった。しかし結局これが盛岡における冷麺文化の萌芽となった。

やがて冷麺は盛岡の人口に膾炙していった。冷麺を売りにする店が雨後の筍のように増えていき、ついには地元テレビにCMを打ってファミリー型店舗として成功する店まで現れた。もちろん、その過程では麺やスープの味も盛岡市民の好みに合うよう「工夫」されていった。青木は晩年、こんなことを語ったという。

「食道園の味が落ちた、と最近よく言われる。うちの味は変わってないはずだ。ほかの店が努力しているんだ」(『盛岡冷麺物語』p.34)

食道園の「別辛」

食道園が蒔いた冷麺文化の種は、いまや大輪の花々となって盛岡に咲き競う。青木の発言は、そんな盛岡冷麺の歴史を端的に示している。

ちなみに、冷麺が盛岡の名物として認識され、盛岡冷麺という呼称を確立するまでには、青木の立志伝とまた別の物語がある。だが、歴史に思いを馳せるのはいったんここまでにしよう。われわれはまだ食道園の2階にいて、目の前では1杯の冷麺が箸をつけられるのを待っているのだから。


つづく